2015年11月28日土曜日

イスタンブールへの旅-1

 今回は自転車旅行からガラリ変わってその二年前の話になります。
自転車旅行の思い出を綴っていると、初めてのヨーロッパの旅を思い出しました。
やはりお話は順序よく始めの時から。


さあ、旅の始まりだ


春日山荘(山猫軒)の原風景はスイスアルプスのアルピグレンという処にある小さなホテルです。
私のアルプス登山とヨーロッパの旅はフランスのシャモニーがスタート地点です。
しかし思い出の中ではこのアルピグレンこそが旅の始まりなのです。
私が23才、40年程前のお話です。
その頃に帰って「私」ではなく「僕」になります(笑)。


 ホテルアルプスはグリンデルワルトというアルプスの谷間の美しい町から山裾の牧草地を登山電車で登っていくと、アイガー北壁という千八百メートルの岩壁の麓に、一軒ポツリとあります。
ホテルというよりペンションといったほうが似合う家族経営のホテルです。


アイガー北壁 麓では牛が放牧されている。
ブラウンスイスというチーズ用の乳が濃厚な種類

ホテルアルプスの本業は畜産で建物の地下室には自家製のチーズがずらりと並んで熟成を待っています。
広い放牧地には牛小屋が幾つも点在し、ホテル周辺の数棟はマットを敷いてバンガローとして使われています。


奥の建物がホテルアルプス。手前は納屋です。

僕は予算の面でこの牛小屋で自炊して過ごしました。ここをベースにして登山やハイキングに出かけ、時には放牧地の開拓の手伝いをしてご馳走にあずかったり、旅行者とおしゃべりしてのんびり過ごしたり、一度は遠くギリシャやイスタンブールまで出かけました。
今思えば随分と贅沢な時間を過ごしたものです。


牛小屋バンガローの前で


アルピグレンからの眺め、ベッターホルンと谷間の町はグリンデルワルト



宮崎大学の教授で昆虫採集に訪れていた。


長野さんと日本人トレッカー


トビン・ソレイソンはアメリカのヨセミテで
スーパースターとして知られた名クライマー。
アルプスでも数々のすばらしい登攀を成し遂げたが
冬のアラスカに消えてしまった。


お花畑でくつろぐ長野さん


牛小屋バンガローで過ごしていたある日、オーナーが子供達の林間学校に使うので三日ほど小屋を変わってくれと言ってきました。その小屋は昔、チーズを製造していた小屋です。

入るなり凄まじいチーズの臭いでまいりましたが、おかしな物で一日いると慣れてしまいます。中には昔使っていたチーズを作る道具がそのまま残っていて、興味を誘います。
斜面に建っている為、床下が高く山羊小屋になっています。メエヘーンという愛嬌の良い鳴き声が床下から聞こえてなんとものどかです。


床下の山羊


放し飼い状態で自由に出入りしています。

チーズやサラミソーセージなどの味をおぼえ、麓のグリンデルワルトで美味しいパンとケーキの店を見つけて、往復2時間の山道を通いました。


牧草地の中、グリンデルワルトへ向かう道にて
背景はアイガー北壁下部


登山を諦めてイスタンブールへ



手元に50年程前のLIFE(アメリカの雑誌)が数冊あります。その中の一冊を懐かしく手に取りました。その表紙は私が中学生の頃に観た映画、イスタンブールを舞台にした「トプカピ」の一場面です、イスタンブールの旅が懐かしく思い出されました。


ライフの表紙、映画トプカピの一場面

イスタンブールへ行ってみたいと思ったきっかけは映画でした。先ほどのトプカピはイスタンブールの今は美術館となったサルタンのトプカピ宮殿から宝剣を盗み出すちょっとコミカルなサスペンス映画です。
また同じ頃に上映された007シリーズ第二作「ロシアより愛を込めて」(当時の邦題は「007危機一髪」)では主人公のボンドがイスタンブールからブルガリアの首都ソフィア、ユーゴスラビアのベオグラードを経てイタリアのベネチアへと列車で逃亡の旅をします。マット・モンローの歌う甘くせつない旋律が今も頭をよぎります。
イタリアの大女優ソフィア・ローレンと当時アメリカを代表する俳優グレゴリー・ペック共演の「アラベスク」では舞台こそイスタンブールではありませんがイスラムの唐草模様(アラベスク)が書かれた暗号文が重要な小道具として使われていました。
そんな映画の影響でイスタンブールへの思いが膨らんでいました。出来ればオリエント急行で汽車旅をしてみたいと。

当時はまだ「オリエント急行殺人事件」や「ミッドナイトエキスプレス」は上映されていませんでした。「ミッドナイトエキスプレス」を先に見ていたらイスタンブールへ行ってみたいとは思わなかったかもしれません。

イスタンブールへの旅の始まりはスイスを代表する観光地グリンデルワルトの山手にあるアルピグレンという牧場です。アルプス三大北壁の一つアイガー北壁の麓です。

僕たちがヨーロッパへ来た目的はアルプス登山のためでした。しかしこの年は天候に恵まれず山行はさんざんたるものでした。
シャモニーのモンブランでは吹雪のため山頂を見失い登頂に失敗。スイスのユングフラウ峰は麓のグリンデルワルトへ着いた時から雨と霧で山へ入る事さえ出来ません。


悪天のモンブランでの長野さん


雲に覆われたアイガー北壁



悪天のミッテルレギ山稜(東山稜)へ


一週間程待ってようやく雲の切れ間からアイガーが姿を覗かせた時は、もうこれ以上は待ちきれぬとばかりにパートナーの長野さんと二人でアイガーの東山稜を登りに出かけました。
ぼくらの技量では北壁は無理でも傾斜のゆるい東山稜なら少々の悪天でもとの甘い考えが、手痛いしっぺ返しを受ける事になりました。


雲の引いたアイガー北壁
1800メートルの標高差を持つ
東山稜へのアプローチへ向かう登山電車は悪天の為に乗客は私達以外誰もいない。車掌がチケットをチェックして「オー、クレイジー」と叫びました。
登山電車を降りて山へ登って行くと車掌の言った意味がすぐに分かりました。大量の雪に覆われて8月とは思えない状態です。空には雲が垂れこみ、いつ壊れてもおかしくない天気です。

方々から雪崩の音が響いてきます。雪崩といっても雪だけではありません、3階建のビルほどもある氷の塊が岩壁の上からなだれ落ちてくるのです。
巻き込まれたら一巻の終わりです。そんな危険にさらされながら岩稜の真下の氷河を横切ります。
ふと見上げると頭上50メートル程の岩壁の上にせり出した氷塊が随分と危なかしそうに見えました。
「走りましょう!」僕と長野さんは重たいリックもなんのそのと全力で氷塊の下を駆け抜けました。
立ち止まって、フーと息をして、振り返った瞬間、その巨大な氷塊が音も無く宙へ舞ったのです。

スローモーションを見ているように巨大な氷塊が宙を舞い氷河へと落下していきます。地響きと共に轟音を発し砕け散り、氷河を滑り落ち、巨大なクレパスへ吸い込まれていきます。
間一髪まぬがれた私たちは呆然とその光景を見ていました。


東山稜への登攀、長野さん

東山稜への登攀,私


東山稜への登攀、長野さん

危険な氷河を抜けて岩壁を登り山稜へ出ると待ち構えていたのは雪が張り付き凍りついた岩稜でした。天気は悪くなっていき雪も舞い始め登山を続ける気力が急激に萎んできます。進むに進めず、引くに引けない状態です。

幸いこの稜線には避難小屋があります。6畳ほどの小さな小屋が岩稜の上に空中に浮かぶように建っています。私たちは小屋へ避難して、天気が落ち着くまで3日間この小屋に閉じ込められました。
雲の切れ間をみて逃げる様にして山を駆け下り、やっとの思いでアルピグレンへ帰り着きました。


東山稜での長野さん 後方にミッテルレギ小屋

東山稜での私  山頂へと続く岩稜

山に積もった雪は来年の夏まで消えそうにはありません。あんな危険な目に遭うのはもう懲り懲りです。私たちのこの夏の登山シーズンは終わりました。

そしてそれぞれ次の目的の旅へと出発することにした。長野さんはイギリスへ語学勉強へ、私はイスタンブールへ今は無きオリエント急行をたどる旅へと。
ブルーモスク、バザール、ガラタ橋、そしてトプカピ宮殿へ。


旅のコース
残念な事にこの年、オリエント急行は赤字の為に廃止されていました。(現在は一部復活しています)しかしイスタンブールへの汽車旅の夢は捨てきれません。 
当時はまだソ連邦が健在で東西冷戦の時代です。ギリシャとトルコもキプロス紛争の最中でしたがとにかく汽車を乗り継いで行けばイスタンブールへ着くだろう気楽に考えていました。



シャモニーへと向かう



悪天のアイガー東山稜で散々な目に遭った僕らは登山を諦め、アルプスの最高峰モンブランの麓にあるシャモニーの町へ向かった。
そこには、モンブラン山群の岩峰で落石のため腕を骨折した仲間が病院で待っている。


 寝袋にダウンジャケットなどの防寒着、炊事道具からロープ、ピッケル、ハンマー、ピトンやカラビナといった登攀用具などで膨らみあがったリュックサックを担いでアルピグレンを後に登山電車に乗り込んだ。

クライネ・ シャイデック

クライネ・ シャイデックからアクピグレン、グリンデルワルトへと下っていく登山電車


電車はアイガー北壁の麓の傾斜地をのんびり下って行く。雪をかぶった白い山頂、そびえたつ灰色の岩壁、山裾に広がる緑の草原、アルプスの雄大な景色を満喫しながら一時間ほどで終点のインターラーケンへ到着した。
ここで電車の乗り換えだ。

グリンデルワルトとは反対側の谷にあるラウターブルネン


ラウターブルネンのシュタウプバッハ滝



グリンデルワルトからシャモニーへ


インターラーケンは「湖の間」という意味で、トゥーン湖とブリエンツ湖という細長い湖の間にある。ベルナー・オーバーランド観光の拠点となる観光都市だが登山が目的の僕らはまったく興味が湧かない。
しかし湖畔を走る電車からの景色は素晴らしく、車窓に流れる湖を眺めていると旅情が湧いてくる。

30分も走るとシュービッツへ着いた。ここでまた乗り換えだ。ホームへ降りると反対側のレーンに待ってましたと言わんばかりに列車が止まっている。

重いザックを背負いホームを横切って電車を乗り換えた。
デッキでザックを降ろしひと息つくと妙な気がした。このホームは二週間前シャモニーからアイガーへ向かう時に降り立ったホームだ。
ということは、この列車の行き先はシャモニーとは反対の方向では、、、、、長野さんもそう思ったようでお互い顔を見合わせた。
車両に掛けられている行き先のプレートを確認しようと長野さんはホームへ降りた。その時、列車はガタンとひと揺れして動き出し、デッキのドアがガシャンと閉まった。

長野さんがドアのガラス窓の向こうから唖然とした顔でこちらを見ている。私は遠ざかって行くホームに立ちすくむ長野さんを呆然と眺めていた。
動き出した汽車の窓に、君をのこし・・・なごり雪ではないが、私は一人BrigブリッグではなくBerneベルンへと向かっていた。
横には大きなリュックサックが二つ。



列車を乗り間違え相棒とはぐれる


僕は一人、電車に乗っている。横には自分のと長野さんのと二つのリュックサック。
相棒の長野さんは、たぶんシュービッツ駅で僕が帰って来るのを心細く待っているはずだ。

とにかく次の駅で降りて引き返す電車を待つしかない。しかし急行列車はノンストップで次々と駅を通過していく。デッキの窓には山々が流れ去って行く。
シュービッツへ引き返すのに意外と時間がかかりそうだ。それまで長野さんは待っているだろうか。
このままはぐれてしまったらどうしよう。シュービッツから遠ざかるにつれて段々不安になっていく。

車掌が切符のチェックに廻って来た。片言の英語と身振り手振りで事情を説明すると車掌は分厚い手帳を広げて電車の時刻を調べてくれた。

「次の駅で降りる。下りの電車が来る。ただし、その間は一分しかない。その電車の停車するホームはこの電車の停車するホームの反対側だ。走らなければ間に合わない。」車掌も片言の英語と身振り手振りで一言一言説明する。僕がうなずくと車掌は隣の車両へと去っていった。

十五分ほどして車掌が戻ってきた。僕にリュックサックを担ぐように促す。親切にも駅が近づいたことを知らせに来たのだ。
僕は一つのリュックサックを背中で担ぎもう一つのリュックサックを前から肩ベルトに腕を通し抱きかかえた。
リュックサックは担ぐと僕の背丈より高く、頭を横に突き出さないと前が見えない。二つのリュックサックでゆうに五十キロは越えている。

数分で電車は駅のホームへ滑り込んでいった。減速し電車が止まる。油圧レバーがプシューと音をたててデッキのドアが開く。僕はホームへ降り立つ。線路を横切るためには十両編成を越すこの列車の最後尾までいって迂回しなければならない。車掌はデッキから身を乗り出してホームの端を指さして「GO!」と叫んだ。


二人分のザックを担ぎ、ホームからホームへと駆け抜ける。


僕は二つの大きなリュックサックを前と後ろに担ぎ、スタートをきった。
ホームの一番端まで百メートル、全力で駆ける。そして短い階段を降り線路を二つ横切って階段を上って反対側のホームへ出た。
下りの列車は五十メートルほど先に停車している。列車へ向かってひた走るが、五十キロを越すリュックサックの重さで既に足がガクガクになっている。
それでも乗り遅れたら後がないと、もつれる足で必死に走った。

列車に近づくと駅員が私に向かって、「急げ」というふうに腕を振っている。やっとの事で電車にたどり着くと駅員がリュックサックをグィッと押し上げて電車に乗るのを手助けしてくれた。
僕が電車に乗り込むや駅員は先頭に向かって大きく手を振った。ドアがガシャンと音をたてて閉まり、電車が静かに走り出した。
間一髪というか、僕が乗るまで待っていてくれたようだった。たぶんあの親切な車掌が連絡してくれていたのだ。
僕はデッキに座り込んで、肩で息をしながら吹き出る汗を拭った。



長野さんと合流しシャモニーへ


列車は一路シュービッツへと向かっている。車窓に流れる美しい景色を眺めながらもぼくは不安にかられていた。
長野さんは待っているだろうか、シュービッツの駅に着いてもし長野さんがいなかったらどうしよう。大きなリュックサックを二つ抱えて一人でシャモニーまで行くことになるのだろうか。
そんなことを考えているうちに列車はシュービッツへ到着した。

減速しながら駅のホームへ入っていく。果たして長野さんは、、、、、いた、ベンチに腰掛けて、ホームへ入ってくる列車を見ている。ぼくの乗っている車両が長野さんの前をゆっくりと通過する。
窓越しにぼくを見つけた長野さんの顔がパッと明るくなって列車へ駆け寄って来る。列車が止まりデッキのドアが開き、目出たくぼくらは合流した。

長野さんも列車に乗り込み、そのままシャモニーへ向けて出発だ。時間を大分ロスしたけれど今日中に着けるだろう。シャモニーまであと二回列車を乗り換える。まずブルックで乗り換へ、次いでマーティニで登山鉄道の様な一回り小さい電車に乗り換える。

電車は花崗岩と針葉樹の急な谷間をジグザグに登って行き、モンブラン山群を望むシャモニーモンブラン駅へ到着した。

時刻は夕方五時をまわっている。駅を出るとそのまま仲間の入院している病院へと向かった。

シャモニー モンブラン駅とモンブラン




仲間と再会と思いきや


病院に着いた僕らは受付を素通りして仲間の待つ病室へ向かった。
ドアを開け室内にある四つのベットを見回した。四つのベットとも青い眼をした外人さんだ。もっともここでは僕らの方が外人なのだが。

仲間の姿は無い。病室を間違ったのかと部屋を出ようとしたらナースが小走りでやって来た。ぼくらの姿を見て追いかけて来た様子で、両手をかざしてまくしたててきた。
早口のフランス語で何を言っているのか分からない。何度か聴き直すうちにナースも落ち着いてきてぼくらに分かる様にゆっくりと話し出した。

「彼はここには居ない。夜になると無断外出してウイスキーを買ってきて酒盛りをする。検診に来たナースのお尻を触る。スカートは覗き込む。入院態度があまりにも酷いので追い出された。」

ぼくと長野さんは呆れかえって顔を見合わせた。そして同じ日本人というだけで僕らも叱られている気分になった。

ナースが部屋の隅にあるロッカーを指差した。開けてみると、そこには僕らのテントなどキャンプ用具が詰まっていた。そして一枚の置き手紙が。

「今日も雨、昨日も雨、その前の日も雨、そのまた前の日も雨。
雨、雨、雨。
雨のシャモニーには、もういたたまれない。旅に出る。」

旅に出るなんて、いったい何処へ行ったんだ?しかも複雑骨折した右腕を肩から吊して。異国の地で連絡の取りようも無い。

ナースにさっさと荷物を持って出ていくようにせかされて病院を出た。
あたりはうっすらと暗くなっていた。寝床を求めて以前来た時にキャンプした山麓の林へ急いだ。



林の中の野営地


その野営地はシャモニー針峰群の麓の林の中にある。
針峰群はその名の通り針のように尖った岩峰が幾つも聳え立つ連山で、岩峰の大きさはは数百メートルもあり、大きな物は八百メートルの岩壁を持つ。

針のことをフランス語でエギューといって岩峰は、エギュー・ド・ミデェーやエギュー・ド・グレポンなどの名前が付けられている。

シャモニー針峰群


余談だが僕はこの名称から怪盗ルパンの「奇巌城」を思い出す。こちらはノルマンディーの海上に聳える岩峰の島でその形から、エギュー城と呼ばれた。
岩峰の中は空洞で七層の部屋になっていて歴代フランス王ルイ家の秘密の宝物庫だったものをルパンが隠れ家として使っていた。
勿論架空のお話だがルパンの冒険とロマンに胸をときめかせたもので、子供の頃は本当にその島があると思っていた。(モデルとなった島はあります。)

話は戻ってそのキャンプ地、というか野営地はメール・ド・グラス氷河へ向かう登山電車の始発駅、モンタンベール駅の裏手から十分程の処だ。

その林はテントを張れないような傾斜地だが一カ所おあつらえ向きの平地がある。おまけに斜面に露出した岩肌からチョロチョロだが地下水が湧き出ている。飲み水と炊事には事欠かない。
トイレは一寸遠いがモンタンベール駅まで行けばよい。キャンプをするにはもってこいの場所である。

本来はキャンプ禁止区域の山域だが、なぜか当局は目をつぶっている。それどころか大きなゴミ袋を木に結びつけていて市の職員が一週間に一度、新しい袋に取り替えにくる。    
このキャンプ地の利用者はほとんどがチェコやポーランドの東欧からアルプスの大岩壁の登攀を目指してやって来たクライマー達だ。
七十年代まだ東西冷戦のころ東欧諸国は西欧諸国に比べて著しく所得の低い時代である。彼らはこの無料のキャンプ場で滞在費を節約しているのだ。

このキャンプ地は料金がかからないというだけではない。木々に囲まれた、静かで落ち着いたとても良い雰囲気である。
正規のキャンプ場はグランドが幾つも入る広さで、キャンプ場では無くキャンプ村と呼んだ方が似つかわしい。

バカンスを楽しむツーリストのキャンピングカーやロッジ型のテントが乱立して驚くほどの人出で賑わっている。
日本から来たツーリストや登山者も多いので、情報収集には良いのだが、逆に煩わしくもある。
そして一日あたりの使用料が四百円取られる。

そういった理由で僕らはこの林の中でチェコやポーランドの連中にまじってテントを張っていた。




長野さんも旅だって・・・


夕暮れ、僕らはそのキャンプ場に着いた。チェコやポーランドの連中がキャンプしているものとばかり思っていたが、一張りのテントも無く、人っ子一人いない。

シーズン中の賑わっていた時には十張り近くのテントが張られていたこの無料のキャンプ場も今は八月も末、バカンスは終わりみんな日常の生活へ帰っていったのだ。
人々の去っていったキャンプ場は残照の中、寂しさが漂っていた。

賑やかだった頃のいほう野営地


僕らはテントを張り、バケットとミルク、サラミソーセージの簡単な夕食を取ると早々に寝袋にもぐりこんだ。

翌日はこの後の旅行の為の荷物整理だ。街のスーパーマーケットで段ボールの空き箱をもらってきて、必要の無くなった登山道具や防寒着、先に帰国した仲間の使っていたテントなどを詰め込む。
段ボール箱二つに収まった荷物を長野さんとそれぞれ担いで駅の隣にある郵便局まで運び日本へ送り返した。

余分な荷物を日本へ送り返すと長野さんは長居は無用とばかりに明日はイギリスへ出発するという。僕らは林のキャンプ場でささやかな最後の晩餐をとった。

先に帰国した仲間の置き土産、粉末のインスタント味噌汁とアルファ米という乾燥米をお湯で戻して日本食の夕げだ。それ程旨いものではないが僕らには贅沢品だった。

翌朝、長野さんは荷物をリュックサックにまとめるとイタリアへ抜ける幹線道路へ向かった。ヒッチハイクで一旦イタリアへ抜けてイギリスへ向かうという。

モンブランはフランスとイタリアの国境に跨がった山群だ。フランス側のシャモニーとイタリアの北部オアスタ州はモンブランの麓をくりぬいた長大なトンネルで繋がれている。

八月のシーズン中はバカンス客で渋滞をおこすほどだがシーズンも終わりの今は通行車両は少ない。長野さんは車が通る度に手を上げるが、なかなか止まってくれない。

ヒッチハイクで旅立つ長野さん



僕は車が止まってくれるまで見送ろうと思っていたが、待ちくたびれてキャンプ地の林へ帰ることにした。長野さんと握手をして別れの挨拶をする。
帰りながら振り返って手を振った。カーブを曲がり長野さんが見えなくなると、とうとう独りになったんだなと寂しくなって、いつの間にか街角のカフェへと足が向いていた。

歩道へ張り出したカフェのテーブルにかけて、エスプレッソを飲みながら雪に覆われたモンブランを眺めた。

シャモニーの街とモンブラン




シャモニーでの最後の日々


翌日、僕の寝床になっていたテントを畳んで最後の荷物を梱包して日本へ発送した。テントの代わりにツェルトザックという三角形のテントの形をした小さなナイロンの袋を木と木の間に吊す。ここ数日の僕の住みかとなる。

一人きりになった野営地、木の間に吊したツェルトザック
石の食卓と椅子


街へ出かけて鉄道の時刻表を買う。ヨーロッパ全域が載ったぶ厚いやつだ。北はノルウェーから、西はスペイン、ポルトガル、東はトルコのイスタンブルまでヨーロッパ全土の時刻表が記載されている。もっとも僕が使うのはその中のほんの少しだ。

カフェでコーヒーを飲みながら時刻表をめくり旅の計画を練る。懐具合は良くないので、いかに安く上げるか苦心する。結局、僕も長野さんと同じ様にモンブラントンネルを抜けてイタリアへ出ることにした。
イタリアの北部、オアスタから更に南に下ってトリノまでヒッチハイクで行って交通費を浮かすのである。
トリノからはいよいよ列車の旅だ。イタリア半島の付け根を横切る様にしてベネチアへ、ベネチアからブルガリア、ルーマニアを抜けてイスタンブルへ、憧れのオリエント急行こそ乗れないが同じコースを辿ってイスタンブルへ行くのだ。



おおよその計画はたった。なのに僕はこの林のキャンプ場でもう六日も過ごしている。
バカンスの去ったこの時期、この林は静寂そのものだ。シーズン中には沢山のハイカーが訪れていたが、今は誰一人として来る人はいない。
夜ともなれば恐ろしいほどの静けさが寝袋の中の僕を覆う。僕は一人で梢の先の夜空を見上げる。

僕は多分怠け者なんだと思う。仲間が旅去って一人になると、なんだか気が抜けて毎日ゴロゴロしている。誰もいない林がとても落ち着くのだ。
そして一日に一度、夕食と翌朝の食料を街まで買い出しに行く。バケットとピザパイなどの調理パン、そして好物のアップルパイを一つ買う。それからバケットを抱えてアップルパイをつまみながら、街はずれのカフェへコーヒーを飲みに行くのだ。 

その店はカフェというより、コーヒー豆の焙煎屋である。店内には大きな焙煎器があって生豆の入った麻袋が幾つも並んでいる。客席は店の前の歩道に二人がけの小さなテーブルが三つあるだけだ。
街中のカフェへコーヒー豆を卸しているのだろう。幾つもカフェを廻ったが、この店のコーヒーが一番美味しい。

店には中学生くらいの娘さんがいて、夏休みの間手伝いをしている。僕はコーヒーを飲みながらその娘さんを見ているのが好きだった。

店の手伝いをしている娘さん





それは幻のようだった、そしてイスタンブルへと旅だつ



神様は七日間で世界を創ったと云う。世界を創るために六日間働いて、七日めには休息を取られた。
ところが僕ときたら、この林で七日間も惰眠を貪っているのだ。そして、その怠惰に対する罰を受けて刑に処されることになった。
僕は後ろ手に縛られて、刑場へ向かう馬に跨がっている。足下から馬の足音が響いてくる。

 パカッ、パカッ、パカッ・・・足音で目を覚ました。簡易テントの中で地べたに寝そべっている耳に直接響いてくる。     
 浅い眠りのせいだろう、足音でおかしな夢を見た。薄明かりの中で腕時計を見ると、まだ六時を回ったところだ。こんなに早くから何だろうと寝ぼけまなこの顔を簡易テントから覗かせる。

 林は霧に覆われていた。霧の中に針葉樹が浮かんで見える。足音が近づいて来る。そして霧の中から馬にまたがった人影が浮かび上がってきた。
 その騎手は、若い女性だった。英国式の乗馬服に身を包み、すらりと馬にまたがっている。
 ちらり、と僕の方を見たが直ぐにかぶりを戻して、真っ直ぐに前を向いて、テントの前を通り過ぎていった。

 黒い乗馬帽から、束ねたブロンドの長い髪が赤い燕尾服に被さっている。そしてその後ろ姿は、また霧の中へと消えていった。

 それは幻のようだった。空間が歪んで別の世界にまぎれ込んだのではないかと思った。目をこすって消えて行った先を見直したが、そこには乳白色の霧が漂っているだけだった。僕は不安になって、寝袋に潜り込んだ。

 やがて、日は高く昇り、その陽射しは林に漂う霧を暖めて、上空へと立ちのぼらせる。
僕はイスタンブルへの一人旅が不安なのだ。それよりもお金の続く限り、この林で過ごしていれば、なんという幸せか。しかし、何もしない事の不安も感じ始めていた。

 出発だ、旅へ出るのだ、イスタンブルへ。もうここには用は無い。朝食をすませると、リュックサックに荷物を詰め込んで、林を後にした。